神社の空気は、人の想いで変わるのか。山の上で祈る意味

山の神社へ続く石段と石の鳥居に朝日が差し込む風景 石織の想い

「ここは、なんとなく近づきたくない」

理由をうまく説明できなくても、そう感じる場所があります。
反対に、初めて訪れたのに、もう少しここにいたいと思う場所もある。

僕自身、妙に気味が悪いと場所だなと感じることがあります。

こうした違いを、僕らはよく「場の空気」と呼びます。

その空気には、景色や音だけでなく、
そこに集まる人の想いも関わっているのではないか。

今回は、僕が「想いエネルギー」と呼んでいる考えについて、
神社と山を通して考えてみたいと思います。

ここで書くことは、何か科学的に確かめられた仕組みについての話ではありません。
僕自身が場所を訪れ、人と接する中で感じてきたことから生まれた、一つの仮説です。

「なんとなく嫌だ」は、何を感じているのか

美容師をしていると、お客様から地域のいろいろな話を聞きます。

「あの公園で不審な人を見かけた」
「あの道は、夜になると少し怖い」

そんな話を聞いたあとに、その場所を通ると、
以前とは少し違って見えることがあります。

暗さや人の少なさが急に気になったり、
何となく警戒する気持ちが生まれたりする。

そう考えると、「なんとなく嫌だ」という感覚には、
その場所そのものだけでなく、先に聞いた話や、
自分の記憶が影響していることもあるのだと思います。

だから僕は、「嫌な感じがする場所には、何か悪いものがいる」と
すぐに考えているわけではありません。

それでも、人が場所によって違う気持ちになることには興味があります。

誰かが怒っている部屋に入ると、事情を知らなくても居心地が悪くなる。
楽しそうに話す人がいると、こちらまで少し気持ちが緩む。

そんな経験から考えると、場の空気は、
そこにいる人とも無関係ではないように思います。

では、その人が立ち去ったあとにも、想いの何かが場所に残るとしたら。

ここから先は、確かめられた仕組みではなく、僕の想像です。

景色や人の振る舞いだけでは説明しきれないと感じるものを、
僕は「想いエネルギー」という言葉で考えています。

神社には、いろいろな想いが集まる

この見方で神社を考えると、神社はずいぶん複雑な場所です。

「無事に過ごせました。ありがとうございます」
「家族が元気でいられますように」
「今の苦しさから、どうにか抜け出したい」
「これから始めることを、見守ってほしい」

感謝もあれば、不安もある。
喜びもあれば、切実な願いもある。

僕が「神社には正と負の想いが交差しているのではないか」
と考えるのは、そういう意味です。

ここでいう正と負は、人の善悪ではありません。

心が開いていくような気持ちと、心が縮こまっていくような気持ち。
その違いを、ひとまずそう呼んでいます。

そもそも、不安を抱えて祈ること自体が悪いわけではありません。

「家族を失いたくない」という恐れの中には、
その人を大切に思う気持ちもあります。

一つの祈りの中にさえ、いくつもの感情が重なっています。

だから、神社に集まる想いを単純に「プラス」「マイナス」
と分けることはできないのだと思います。

僕がむしろ気になるのは、神社を訪れたときに抱えていた想いが、
帰る頃にはどう変わっているのかということです。

山の上には、「たどり着いた」が加わる

僕は、山の上にある神社に惹かれます。

「高い場所にある神社ほど位が高い」というような話を
耳にすることもありますが、標高の高さがそのまま
神社の位を決めるわけではありません。

歴史上の社格や信仰上の位置づけと、
山の高さは分けて考える必要があります。
[1]岡山県神社庁「神道用語」

一方で、山に登り、そこで祈るという営みには長い歴史があります。

たとえば宝満山では、標高829メートルの山頂に
竈門神社の上宮があり、麓には下宮があります。

竈門神社の案内でも、古くから人々が山に登り、
祈りを捧げてきた歴史が紹介されています。
[2]竈門神社「宝満山」

今のような交通手段がなかった時代。

山の社を目指した人たちは、
どんな気持ちで歩いていたのだろう。

長い道のりの先で、ようやく社が見えたとき。
願いごとより先に、「ああ、着いた」
という気持ちが生まれた人もいたのではないでしょうか。

疲れた。大変だった。でも、ここまで来ることができた。
そこには、もともとの祈りに加えて、たどり着いた喜びや安堵があります。

山頂から見える景色に、心を動かされた人もいたでしょう。

山の上の神社には、こうした「たどり着いた」という
明るい感情が生まれる機会が多いのではないか。

僕は、そんなふうに考えています。

登る途中で、祈りの中身も変わるのかもしれない

考えているうちに、山頂に集まる想いの「量」だけではなく、
そこへ向かう途中で起こる変化の方が大切なのかもしれない
と思うようになりました。

山に入る前は、仕事や暮らしのことで頭がいっぱいだったとしても、
登り始めれば、少しずつ意識は足元や呼吸へ向かっていきます。

歩く。息を整える。立ち止まる。水を飲む。また歩く。

それを繰り返しているうちに、社の前へ立つ頃には、
出発したときとは少し違う気持ちになっているかもしれません。

「どうにかしてください」という願いに、
「ここまで来ることができました」という感謝が加わる。

そして、「もう少し、自分でもやってみよう」
という気持ちが生まれることもあるかもしれない。

手を合わせる前に、自分の足で一つの道のりを終えている。
その経験が、祈りの中にも混ざっていくのだと思います。

もちろん、山に登れば誰もが前向きになるわけではありません。
麓の神社で静かに手を合わせることで、救われる人もいるでしょう。

それでも僕は、歩いてたどり着くという過程に惹かれます。

目的地だけではなく、そこへ向かう時間そのものに、
自分の気持ちが変わっていく余地があるからです。

場所が人を変え、人も場所に関わっていく

景色に感動する。
たどり着けたことに感謝する。
その場所を、大切にしたいと思う。

そんな気持ちから、道を整える人がいる。
境内を掃き、次に来る人のために場所を守る人がいる。

そう考えると、人の想いは、少なくとも目に
見える形では場所に残っていきます。

丁寧に手入れされた境内を見て、
「ここは大切にされてきた場所なんだな」と感じる。
その感覚が、次に来た人の振る舞いにもつながっていく。

そうした積み重ねが、「場の空気」と呼ばれるものの
一部をつくっているのかもしれません。

そして僕は、そこに目には見えないものも
重なっているのではないか、と想像しています。

たどり着いた人の喜び。無事を願った時間。誰かの幸せを祈った気持ち。
もし、そうした想いも少しずつ場所に残っていくのだとしたら。

僕らが「ここはいい場所だ」と感じるとき、自然の美しさだけでなく、
そこに重ねられてきた人の想いにも触れているのかもしれません。

そして自分もまた、一つの想いをそこに重ねて帰る。

僕は、場所のエネルギーをそんなふうに想像しています。

だから僕は、石を山へ連れていきたい

僕がISIORIの石を山へ持っていきたいと思う理由も、ここにつながっています。

山へ持っていけば、石に何か特別な力が確実に入る。
そう言いたいわけではありません。
それを確かめる方法を、僕は持っていません。

でも、自分の足で山を登る。
景色を見る。たどり着いたことに感謝する。

そこで一度、立ち止まる。

その時間に石を一緒に連れていくことには、僕自身にとって意味があります。

不安も、迷いも、最初からなくす必要はない。
それを抱えたまま歩いて、疲れたら休みながら、それでも少しずつ先へ進む。

そんな時間を一緒に過ごした石が、誰かの日常の中で目に入ったとき、

「自分も、もう一歩だけ進んでみよう」
と思うきっかけになったら嬉しい。

想いが、本当に場所に宿るのか。
その答えは、僕にはまだわかりません。

でも、その場所を訪れたことで自分の中に生まれた想いなら、
そのあとも持ち帰ることができます。

山の上で感じる空気も。こへ向かって歩いた時間も。
僕は、その両方を大切にしたいと思っています。

そして、その時間を石にも重ねていきたい。
それが、僕がISIORIの石を山へ連れていく理由です。